WebHPリンク・ページ(2018-11-09講義:配布パワーポイント資料の補足)
ーードイツ史における11月9日ーー
11月革命100周年(第一次世界大戦終結100周年)
1918年11月03日キールで水兵のデモに軍隊が発砲・・・死者7名、負傷者29名
・・・革命勃発・北ドイツ放送(NDR)テレビ・ドキュメンタリードラマ「1918 水兵の反乱」
11月9日 革命成功・・・皇帝失脚(ZDF映画)
1923年11月8日夜から9日にかけ・・・ヒトラーのミュンヘン一揆
1938年11月9日・10日・・・帝国水晶の夜
ナチ党では、ミュンヘン一揆を記念した集会を毎年11月9日に。
この集会の場に、パリでユダヤ人青年によるドイツ外交官射殺事件発生の知らせが届く。
ゲッベルスの大々的演説・・・9日から10日にかけk、大々的なポグロム(ユダヤ人商店やシナゴーグへの破壊・略奪・放火)
1939年11月8日夜・・・ゲオルク・エルザ―(単独)によるヒトラー暗殺未遂事件
・・・映画『ヒトラー暗殺 13分の誤算』(DVD):
・・・エルザ―が爆弾を仕掛けたビュルガーブロイケラー(大ビアホール)の現在と彼の下宿があった場所(ゲオルク・エルザ―・プラッツ)
ーー来年公開予定の映画ーー
2019年1月25日公開:フランス・イギリス・ベルギー合作映画『第三の男』、ハイドリヒ暗殺を描く
・・・『HHhH プラハ 1942年』の「待望の映画化」
2019年2月8日公開:ドイツ映画『小さな独裁者』
ーーーー
ヒトラー (総統)・ ヒムラー(親衛隊最高指導者・ドイツ警察長官) ・ハイドリヒ(帝国保安本部長官)
コピー配布の拙稿「総力戦とプロテクトラートの『ユダヤ人問題』」『横浜市立大学論叢』第56巻 人文科学系列 第3号)・・・・ハイドリヒの思想と行動を貫くもの
ヒムラー・・・・ユダヤ人抹殺の正当化の論理・・・・「強制された必然性」
ヒトラーの意(39年5月発令・白作戦)を受け、ヒムラー・・・ハイドリヒ・・・開戦(侵攻)の口実・事件づくりを秘密裏に。
グライヴィッツ放送局襲撃事件(1939年8月31日夜)
二つの「ポーランド正規軍による国境侵犯事件」のでっちあげ。
国会放火事件・・・ナチスの敵の「陰謀」(クーデター計画)なるものを「でっちあげ」ないし「即興的に活用」するやり方との行動パターンの共通性
ーー独ソ戦ーー
1941年6月22日から、軍の侵攻の後を追うアインザッツグルッペ(A,B,C,D)
「事件通報・ソ連」
ドイツ軍の侵攻とともに、各地でユダヤ人殺戮(射殺)
41年6月22日から9月初めまで無線通信で、報告
(英国情報部は傍受・チャーチル知っていた)
1941年7月31日 ゲーリング令
ドイツ国内とチェコ・併合東部地域における不穏な状態→「冬の危機」へ
1941年9月「総統のご希望」→ユダヤ人移送政策の臨時措置(一時的回避策l)の強行→
各地ゲットーなど、受け入れ困難な諸事情・移送強行:難問の蓄積
1941年9月7日から13日の「ナチ党週間スローガン」・・・「もしも国際金融ユダヤ人(民族)がもう一度、世界戦争を引き起こすことに成功したら、その結果は、ユダヤ人(民族)の勝利ではなく、ヨーロッパのユダヤ人種(Rasse)の絶滅だ。」
41年12月9日、ゲーリング命令(7月31日)に基づく会議を召集(11月29日付書簡)
ーー世界戦争へーー
1941年12月7日(日本時間8日)日本軍の真珠湾攻撃。
ヴァンゼー会議(当初、12月9日予定)の延期
1941年12月11日 ヒトラー、対米宣戦布告の国会演説
ドイツ軍が確保したソ連戦時捕虜ー統計・死亡率
1941年6月から11月までに、170万人余。
1941年12月16日 総督府閣議・・・総督フランクの発言記録(議事録)
1941年12月18日 ヒムラー業務日誌(ソ連崩壊後、モスクワの文書館で発見…出版)と、その41年12月18日の記載
「ユダヤ人問題 | パルチザンとして殲滅」
移動型ガス室(ガス・トラックGaswagen)投入地
1942年1月1日 26か国連合国宣言
1942年1月8日 会議の再招集
・・・41年12月9日召集(11月29日付書簡で招聘)の会議を、「もはや延期できないので」、1月20日に開催、と。
1942年1月20日、ハイドリヒ主催のヴァンゼー会議:議題「ユダヤ人問題の最終解決」・・・・主要官庁の次官級の会議(参加者)
★議事録(15頁):30部作製・・・外務省文書つづりから見つかったのはナンバリング16.
★議事録における「ユダヤ人の国・地域別、人数の統計)
★総督府時間ビューラーの要望・・・「まず、総督から始めてほしい」、
「総督府は輸送問題が対して重要ではない」、「可及的速やかに総督府から遠ざけなければならない」、「ユダヤ人は伝染病の運び屋、・・・闇商売で経済をぶち壊す」、「問題となる250万人のユダヤ人うち、そのほとんどが労働不能」
*議事録の1947年春の発見の経緯 : ケンプナー、テイラー等検察サイドの発見時の興奮
42年1月25日の卓上談話(ヒムラー同席)・・・ヨーロッパの人々の「理解」・・・・ヨーロッパ・ユダヤ人の根絶
絶滅収容所(移動型・ガス自動車)
☆ヘウムノ(1941年12月〜42年5月、42年9月〜43年3月)
絶滅収容所(固定型)
☆ベウゼッツ(1942年3月〜43年はじめ、60万人)、
☆ソビボル(1942年5-6月、10〜12月、43年3〜8月、25万人)、
☆トレブリンカ(1942年7月〜43年8月、90万人)、ヴィレンベルク『トレブリンカの反乱』
および、
☆アウシュヴィッツ(1941年9月、42年1月〜44年11月、100万人)
(大量殺戮の統計)